旧富澤家住宅について
富澤家の家譜によれば、当家の先祖政本は、今川氏の家臣で、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦で亡ぼされた後、逃れてこの地に土着した。その後、
政本の子忠岐(通称忠右衛門)が、初代名主を務め、以後、代々連光寺村の名主を世襲した。当家は、明治天皇始め皇族方が、明治14年(1881)以来幾度かこの地に兎狩りなどに行幸、行啓した際に「御小休所」として利用された由緒ある家である。主屋は、文化9年(1812)の屋根葺替の記録から、既にそれ以前に建てられていた事が分かる。建築手法、形式などから、推定建築年代は18世紀中頃から後半と推定される。また、嘉永5年(1852)から明治期に、式台付玄関・客座敷の縁・便所などの改造が行なわれ、移築までに、幾度かの増改築がなされ上層民家としての形を整えたと考えられる。当市内で入母屋造りの式台付玄関のある建物は当家一軒だけである。主屋の規模は桁行9.5間、梁行5間である。間取りは上層民家特有の間取りで、客座敷と日常生活とを完全に分離させた広間型多間取である。構造は入母屋造りで、小屋梁の上に小屋束を立てて上屋梁を乗せ、この上に又首を組む。上屋梁と小屋梁の間は、切り又首となるいわゆる下屋造りである。正面と上手(左)側面は小屋梁を外に枯出しで角造りの出し桁とし、軒桁を掛けて小天井を張るという工法の船竭「りである。 平成2年5月、多摩市連光寺富澤政宏氏より寄贈を受け、復元後移築した。なお、移築にあたっては、屋根の茅葦を銅板葺に変えるなど完全な復元は困難な部分もあり、一部変更し施設の充実に努めた。
※多摩市教育委員会 〜旧富澤家住宅〜より |
※建物内の写真撮影及び掲載については、事前に多摩市より許可をいただいております |
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